学生野球の鬼

学生野球の黎明期から現在まで


学生野球の黎明期は、厳密に言えば異論はあろうが、
実質的に見れば官立一高と横浜外人クラブとの試合
と位置づけてもよかろうと思います。当時は、欧米
先進国家から近代化のために、その精神的支柱であ
るキリスト教以外であれば、万物舶来のものであれ
ば、とりあえずどんなものでも採り入れたのだと思
います。

そのなかでも、「野球」、これは正岡子規が「ベース
ボール」から訳したものだとされていますが、その
球技の実践がどういうわけか日本人の性向に合って
いたのか、 瞬く間に日本全国でその人気を博してい
くことになります。


実際には、 東京などの都市における学生対抗試合か
ら民衆に認知されていくことになったのですが、 東
京であれば、 早慶戦で一気にその人気に火が点くこ
とになりました。 当時は日露戦争などの国の存亡を
かけた 対外戦争の余韻も覚めやらぬ空気のなかでの
こともあって、 一スポーツでも最初の試合申し込み
の段階では、 果たし状といったやり取りも行われて
いたようです。 またあまりに過熱しすぎていたため
早慶戦でも のちの六大学野球の開催までの長い間を
かけて、 両校間の対抗試合が実施されないという時
期もありました。

過熱したのは、 当時の一般民衆のはけ口が、ただで
さえ娯楽の少なかったため、 一挙に野球に向かうこ
ととなり、 一方で、こうした風潮に、野球は不良の
やるスポーツだ! などと、訝しく思う一群も多くい
ました。 例えば、今の都立日比谷高校の前身の府立
第一中学校長だった 川田正徴という人は、 一部の
他の公私学校の校長や朝日などの一部記者、 そして
文部省などとともに「野球害毒論」 を唱える始末で
した。  特に早慶戦などで早大や慶大などが入場料を
とって野球を興行化していたことを 「 野球儲け学校
」などと揶揄していたことは、体育 ・ スポーツを健
全な知育 ・ 徳育と共に体育育成の教育の一環として
主導しようとしていたためである。 この辺りに今日
・  現代まで続くアマとプロの境目に関する様々な問
題を見ることができるが、 その話題は ここでは横に
置いといて、校内で庭球(テニス) や 柔剣道などを
中心にスポーツを推奨していたにも拘らず、 これら
の対外試合を禁止していたことに よく表れている。
もっとも自校の陸上選手らが 当時の中等学校陸上大
会で全国 5位 の成績で凱旋して帰ってきたときは、
さすがにその労をねぎらっていたという。

これが声高く云われたのが東京であったことが、 例
えば、 大阪や名古屋などの中等教育段階での公立学
校の野球のレベルの点で 大きなハンデを与えたこと
は、甲子園での 旭丘高校の前身の愛知一中や、大阪
の北野中学の活躍と比べ、 東京の府立一中にこの時
期目に 見張る活躍が見られなかったことと に帰着す
ることと思います。

惜しむらくは、戦前 戦中の都予選では、準決勝の日
大三中戦で 20点近くとられて敗退したのは愛嬌だと
しても、 終戦後の東京六大学野球戦で人気となった
「両山崎」 の一角で、漫画  「栄光なき天才たち」
の主人公として描かれている 山崎喜暉ら、それに続
いて一高の広角砲・加賀山朝雄などの名選手を輩出し
たことであろう。
もう少し早く東京の府立中学各校でも野球の取り組み
が早かったら・・・ 当時の首都圏の教育界の頭の中に先
見があったらば‥ などと思わざるを得ない。
※
  • 日比谷高校と名門校
  • 戸山高校篇でもこの辺りについて触れられていました ので御覧下さい。 さて、野球が他の競技・球技などと比較して一際人気 を博した理由としては、やはり試合の流れの間に攻守 の入れ替わりなどの一定のテンポがあって、対戦両者 関係者にとって、応援のしやすさがあったことが大き な要因として挙げられるのではないかと思います。 この点に関してだけは、意義を唱える方も、あまり多 くはなかろうと推測いたします。

    六大学野球の勃興

    
    こうして学生野球は、中等教育段階では、大阪や京都な
    どの上方や地方の都市の中心校、東京であれば、早大や
    慶応などの系列校などで、その人気を確かなものとなっ
    ていったのですが、大学野球では、明治大がとりなして
    人気の早慶戦の復活がなされ、徐徐に現在の六大学野球
    へと変化・発展していったのであります。加盟の六校目
    ないし七校目を決める際に、東京帝大と中央大とが候補
    に挙げられていました。
    中央大と東大とは「法典論争」のさなかにあり、またイ
    ギリス法の中大と、フランス法を伝統にもつ法政大・明
    治大と折り合いが悪かったため、結局中大が辞退した形
    で加盟しなかったことになっていることは、越智通夫な
    ども書いています。
    
    これら一連の動きは、飛田穂洲という、当時早大の監督
    を引き受け、また朝日新聞の運動部にも属していた一人
    の人物の腹の中で、立教大の加入の件も含めて全てが決
    まっていたとされています。
    
    早慶という政府に反抗して作った人物と、政府と一定の
    距離をもって朝野の実業家を生み出していった人物らが
    作った学校が中心になって、明治や法政といった官吏養
    成の法律学校や立教のようなキリスト教学校、あげくに
    権威づけのために東京帝大と、当時第二帝国大学と呼ば
    れ、帝大の下部機関的な位置づけにあった中央大などの
    加盟・非加盟などを決定していったのは、面白いところ
    です。
    
    この点で、野球害毒論に染まっていた東京府立の諸中学
    校と違って、野球に限らずその他のスポーツでも当時先
    進性を保っていた大阪などの中学校などとの共通性をみ
    ることができるのではないでしょうか。
    
    関西の私立大学は、商都・大阪の影響から、官公立の商
    業学校や高等商業学校が幅を利かせ、宗教を基盤とした
    同志社、関学、法律学校を前身とする関大、立命館の発
    展も東京のそれらと比べ遅れたものでしたが、 それでも
    東都大学野球連盟設立の同時期に 関西六大学野球が設け
    られ、 初期には関大の西村幸生のような剛速球投手が、
    六大学各校との東西対抗戦でもなで斬りを演じて、「西」
    の「東」に対するライバル心を世に見せ付けたこともあり
    ました。
    それでも戦前のこの時期、早大相手に立命大が 30点近く
    取られて大敗を喫した試合もあり、当時の人気・実力NO.
    1は、東京六大学野球であったことは 間違いありません。
    
    愛知の山本球場、大阪の豊中球場で勃興期の甲子園大会
    が開かれるなど、野球がもっとも盛んであった箱根以西
    の有力校に所属する有望選手たちがこぞって 「東」の六
    大学野球になだれ込んだことも大きな要因ですが、 関西
    方面は「官立信仰」が根深く、また、 官公私問わず商工
    学校や官立の高商どころに大きな権威があったため( 例
    えば、神戸大の前身である神戸高商など )、私学が有望
    選手を集めるのにも一苦労したことは想像に難くないこ
    とです。
    
    
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